切 望

本当のしあわせを 探したときに
愛し愛されたいと考えるようになりました
そしてあたしは君の強さも隠しがちな弱さも汲んで
時の流れと空の色に 何も望みはしないように
素顔で泣いて笑う君にエナジイを燃やすだけなのです

(「幸福論」椎名林檎 )


もしも欲望を純粋なかたちでどこまでも突き進めるのなら
それは無欲と同じ造形になるのかもしれないと
今は思います。

決められた我慢とはある一定の小部屋で暮らす訓練であり
上手くゆけば洗練と讃えられたとしても、今では
社会現象となったいくつもの事象を目の当たりにすれば
それが賢い方法と云えないのも詮方なく、
しかし野放しの欲や怒りを振りかざす動物を人間とは呼べず
如何に「愛故に」と叫ぼうとも、ヒトは我欲に基づく
計画的犯行を「動物的本能に従ったまで」などと
嘯く動物だということを忘れてはならないのです。

この世の犯罪は大きくも小さくも全て
愛に飢えたヒトたちの父親もしくは母親に対する
復讐心の現れではないかと最近想うようになりました。
愛への切望と欲情と充足を知らぬ人々に
統制を重んじる社会が彼らに負わせる抑圧は
飢えた赤子に小石を呑ませるようなもの。
己の餓えを泣き、かつ一度満たされ
その段階を知らなければ
ヒトは「欲」の意味さえ分からないのです。


「強い意志」とは我慢と知識と理屈の結晶ではなく
経験と自信に裏打ちされた己の人生哲学であるということを
人はもっと思い出さなければ
時計よりも数字よりも確かなものは
自分の後ろ姿であるということを
もっと自覚せねば、なりませぬ。

愛し愛されたいという感情を棚上げする程に
ヒトは生きる余裕を無くしてしまいました。
斯く云う私も永い間、その心を木箱に収めてきたひとり
それ以外に何の方法があるだろうと諦めて居りました。

ただ亡者のように餓え続ける彼ら
哀しくも、微笑みすら妬む彼らを
私はまだ愛しているのです。
そして未だ己の置き所が掴めない。
ただ唯一、犠牲というものが何の意味も持たないことを
罰には恨みしか残らないことを、私は知っただけなのです。

いつの間にか私は自らの心を棚上げする程に
自分が麻痺していることに気づきました。
人の強さも弱さも汲んで、それでも
自分が素顔で居続けられること


わたくしが今、心から望んでいるのは
ただそれなのです。

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