ひとのカタチ

軍団を率いたカエサルが、未開の地ガリアに赴いた時、自ら報告書として書き綴った「ガリア戦記」。カエサルはその歴史的な業績だけでなく、卓越した著述力でも知られています。小林秀雄さんがカエサルの「ガリア戦記」を読んで「充ち足りた気持ちになった」と言ったあとに、こんなふうに語っていました。


昔、言葉が、石に刻まれたり、煉瓦に焼きつけられたり、筆で写されたりして、一種の器物の様に、丁寧な扱ひを受けてゐた時分、文字といふものは何んと言ふか余程目方のかかつた感じのものだつたに相違ない。今、さういふ事を、鉛の活字と輪転機の御蔭で、言葉は言はば全くその実質を失ひ、観念の符牒と化し、人々の空想のうちを、何んの抵抗も受けず飛び廻つてゐる様な時代に生きてゐる僕等が、考へてみるのは有益である。読者の思惑なぞは一切黙殺して自足してゐる様な強い美しい形が、文学に現れるのがいよいよ稀れになつた。この様子で行くと、文学は、読者の解釈や批判との紛糾した馴合ひのうちに悶絶するに至るだらう。

(『ガリア戦記』小林秀雄 1942.5月「文学界」より)
 
 
 
現代は、印刷や出版物だけでなく、こうして
ネットでも毎日膨大な量の言葉があふれています。
思想や物語や知識、それから画像や写真や音楽も。
実も虚も、情報のあらゆるものが浮遊しています。

そして人間は唯一、情報に強く影響を受ける動物です。
恋も、憎しみも、喜びも、悲しみも
情報と経験と本能の総合判断で成されます。
そしてまた、それらを自由に組み立てて、自分に最も
都合の良いように判断をする生き物でもあります。


だからこそ人は喜劇でもあり、悲劇でもあるのでしょう。
或る人はそれを笑い、或る人はそれに腹を立て
或る人はそれに恋をし、或る人は涙を流すのですから。

小林秀雄さんは「読者の思惑なぞは一切黙殺して
自足してゐる様な強い美しい形」と言いました。
私は縄文土器のような形を思い浮かべます。
もしも、そのような普遍的な意思の形があるとすれば
それは感情も誤解も一切無視したような、ただ強く
「己が生きた」という証かもしれません。


重要なのは、結果として生じた数々の運命ではなく
誰かが何かを生み出そうとした、何かを残そうとした
その強い想いなのだと思います。

何かをカタチにしようとする想い。
それも人間という形をした、我々の特徴なのですから。
 

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