桜色

 
  ねがはくは 花の下にて 春死なむ
  そのきさらぎの 望月のころ

  西行
 
 
有名な、西行の桜の歌。
「きさらぎの望月」とは旧暦の二月十五日のことですが
西行が他界した1190年では、新暦3月23日にあたります。
きっと桜の美しい季節だったことでしょう。

桜は満月の日に向かって、つぼみをふくらませると言います。今年の旧暦二月の望月、つまり満月は、西行の時よりも少し早くて3月15日でした。
今年の桜が早かったのは、そのせいかもしれないね。
 
 
名門藤原一族という、由緒ある裕福な家系に生まれた西行は、10代の頃から武士のエリートコースを歩んでいました。若くして「北面の武士」という院直属の精鋭部隊に選ばれるほどの実力を持ち、歌も上手く、文武両道の麗しい青年だったと言います。

その彼が突然出家をしたのは、まだ23歳の時。
その若さと、惜しまれるほどの華やかな将来を捨てたことに、周囲でも噂になりました。普通の人々の出家とは違い、西行はどこかの寺院や宗派に属するのでもなく、地位や名声を求めるのでもなく、ただひとり静かに山里の庵で、自己と向き合うための遁世であったといいます。
 
 
西行は鳥羽院に仕える「北面の武士」でした。
鳥羽院には待賢門院璋子という中宮がいました。
彼はこの、17歳年上の璋子に恋をしていたといいます。
璋子もまた世の流れに翻弄された女性でした。

璋子は時の実力者である白河院に育てられました。幼い璋子に手を出した白河院は、自分の子を身籠らせたまま、彼女を孫である鳥羽帝の后にします。その生まれた子、崇徳は、名目上は鳥羽帝が父でありながら、実父は白河院という複雑な事情。そんな因果が、後の政権争いや戦乱の世に繋がっていくという、歴史的な背景がありました。
 
 
武士のつとめや宮廷での生活を通して
若き日の西行は、帝の中宮である璋子に憧れを抱き
いつしか二人は恋仲となりました。
しかし勿論、天皇の后と武士では
報われる恋ではありませんでした。

失意の内に彼が出家をした2年後
あとを追うように、璋子も出家をします。
そして彼女はその3年後に45歳で亡くなりました。
西行は、まるで璋子の最期を見届けるように都にとどまっていたといいます。

そして彼女が亡くなったその翌年から、彼は旅を始めます。
1147年、西行は30歳の晩春でした。
 
 
… というのが、西行の出家にまつわる一説です。
 
 
 
朝廷が、権力争いに明け暮れた混沌の時代。
暗澹とした政界への失望、叶わぬ恋、親友の死などを経て
深く無常観に浸りながら歌を詠い、生き続けた西行。

しかし決して、山に籠りきりの世捨人ではなく、西行は好奇心が旺盛な行動力の人でした。旅を通じて新しい土地や空気に触れることを好み、歌を通じて仲間と交流を楽しみながら、時に世を儚み、無常や空虚や孤独にも深く想いを寄せていました。人間らしさを追い求めた、とても自然体な人だったのだと思います。

  願わくは、桜のもとで 春にこの世を去りたい。
  あの如月の 満月の頃に。

そう歌った西行は、その言葉のとおりに
歌を詠んだ数年後の 文治六年 二月十六日
春の満月の翌日に、73歳で亡くなりました。
 
 
 
桜の季節、花を詠む歌。
古の人の美意識やそれにまつわる物語は
今でも私たちの心に、染み入るように響きます。

美しい日本の春は桜色。
時代は遷り変わっても桜は咲き、春を呼び
人々はまた、様々な想いを馳せるのでしょう。
 

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